宮古の事業家・下地米一の生涯(2)

トラック一台からの出発

◆馬車務者たち

1956(昭和31)年、宮古島に帰郷した35歳の下地米一は、さっそく

個人運送業をはじめる。米一が運搬するのは主にサトウキビ。琉球石油の

ドラム缶を運ぶこともあった。のちに米一の宮古交通を支えることになる

来間勇も、一国一城の主としてトラックを走らせていた。「あのころ、野

心にあふれる男たちはみな、運送業に飛び込んだものです」と来間は語る

。荷馬車の轍でボコボコの道を、ポンコツのトラックが走った。荷の積み

下ろしも自分でやる。整備も改造もやる。「運送業者は馬車引きに毛の生

えたようなものだったから、”馬車務者”と見下す者もあったが、本人た

ちは気にしなかったさ」と、現在は社長として先嶋建設を率いる黒島正夫

が振り返る。先嶋建設も、米一の宮古交通とおなじく運送会社から発展し

、ともに宮古の業界を牽引した建設会社だ。

米一がはじめたころの個人運送業者たちは、モータープールと呼ばれた

駐車場で情報を交換し、仕事を融通しあっていたが、いつしかグループが

できあがり、グループ間で競いあうようになっていった。米一がリーダー

を務めたのが「丸友運輸」である。1959(昭和34)年には、琉球政府

の行政指導もあり、丸友運輸は他のグループも吸収して「宮古陸運」へと

発展する。

◆宮古交通の誕生

この時期の宮古経済は、農家が生産したサトウキビを製糖会社が砂糖に

加工し、その砂糖を沖縄本島に運んでドルを稼ぎ、そのドルで衣食住に必

要な物資を本島から買い入れることで成り立っていた。運送業の勝負は、

製糖工場にどこまで食い込めるかで決まる。

米一が強引とも言える行動力で大きなチャンスをつかんだのは、宮古陸

運創設直後のことであった。それまで沖縄製糖の一社だけだった宮古島の

製糖業界に、あらたに宮古製糖が参入し、工場の建設がはじまったのだ。

米一は、宮古製糖の社長室を訪ね、北学区の大先輩でもあった真喜屋恵義

社長と直に交渉する。設備機材一式の運搬を宮古陸運に任せて欲しいとい

うのがその内容だ。「あれだけの機械を一社で運べるのか」と問う真喜屋

に、米一は「大丈夫です。まかせてください」と言い切り、大きくても3

トン程度しかないトラックで、何十トンもの資材の運搬を成し遂げてみせ

た。米一は真喜屋の信頼を得た。 

続く1960(昭和35)年、宮古製糖工場が操業を開始すると、真喜屋

は、米一らにサトウキビの運搬をすべてまかせると約束する。経営が軌道

に乗った宮古陸運は、1962(昭和37)年には、合名会社「宮古交通」

へと移行。社長には41歳の米一が就任し、のちに総合建設会社への成長を

支えることになる砂川栄市、砂川恵常、そして狩俣雄三ら仲間たち25人あ

まりがトラックを現物出資して参加した。
 ところがその翌年、宮古島は大干ばつに見舞われ、サトウキビ畑が壊滅

する。製糖の原資が全く足りない状況で、被害の軽かった多良間からサト

ウキビを買いつけるも、焼け石に水であった。はやくも宮古交通は窮地に

立たされた。

◆土木建設業進出

米一は、「運送業だけでは食えないよ。土建業をやろうか」と仲間たち

に問うた。サトウキビの運搬は12月から3月にかぎられる季節商売で、そ

れ以外の時期に、家族を養えるだけの仕事を確保するのはもともと難しか

った。道路や港湾整備用の資材運搬も請け負う宮古交通が、土木建設業そ

のものに進出するのも自然であった。しかし米一らには、土建業の経験が

まったくなかったのだ。不安を感じた者もあったが、難局にあっては退路

を断つ選択でリスクを取る米一の性格も、みながよく知っていた。やはり

、「やろう!」が米一の決断だった。米一は、宮古交通を建設業に登録し

、組織も株式会社へと変更した。このころ、重機車両に詳しい福原敬洋も

入社。受注が先で、必要な設備機材の確保は走りながら考えることもあっ

た。”怖いもの知らずで、とにかくやってみる社風”で、前へ前へと進む

1972(昭和47)年の本土復帰前後には、宮古島にも復興事業景気の

予感が漂いはじめる。沖縄本島の琉球生コンが設備を刷新し、古いプラン

トを解体中との情報を得ると、米一は、「不要になった生コンプラントを

買いつけてくれ」と指示を飛ばす。この数年前から宮古交通は、石灰岩を

砕く設備を稼働し、コンクリートの材料である砕石を生コン会社に販売し

ていた。近く、大型のインフラ整備事業が増えるに違いない。本土や沖縄

本島のゼネコンの下請けで土木工事を行うかたわら、こんどは自分たちで

生コンクリートそのものを製造し、直接ゼネコンに売ろうとの計画だ。狩

俣や来間らが本島に行き、中古のプラントを解体して運ぶ。福原らが宮古

で待ち受け、組み立てなおす。このプラント購入は、沖縄銀行から巨額の

融資を受けた先行投資であった。この時、米一は52歳。「度胸があって、

先見性もある。何よりも、決断が早い人でした」と来間が当時を振り返る

。この投資は当たった。(敬称略)

※馬車務者=バシャムチャ