自公連立20年“風雪”のミキオ

(2019年10月4日にメールマガジンにて配信された内容を転載しています)

1999年に発足した自自公連立政権は、10月5日で20年を迎えます。

安倍総理は1日の政府・与党連絡会議で「自公20年、公明党の皆さまに感謝する。風雪に耐えビューティフルハーモニー(美しい調和)を奏でることになった」と、公明党への謝意を示しました。

この20年前の自自公連立政権の発足から、私・下地ミキオの“風雪の政治”が始まったことも間違いありません。

安倍総理が自公連立政権を“風雪”という言葉で表現しましたが、私もあの時のスタートに立ち会った者として、私の初当選から23年間の時間も“風雪”であったと申し上げたい。

1998年7月に行われた参議院選挙で自民党が大敗し、当時の橋本龍太郎総理が辞任した後、小渕恵三政権が誕生いたしました。

しかし、参議院における少数野党のねじれ現象もあり、連立政権を模索する中で自自公政権が生まれたのです。

その時、自民党が他党との選挙協力を行う初めてのケースが、衆議院沖縄一区でありました。

当時の白保台一先生(公明党)と私・下地ミキオ(自民党)で、“白保先生が選挙区、私が自民党の九州比例”という全国初のコスタリカ方式が実現したのです。

そしてコスタリカでは、2回目は“下地ミキオが選挙区、白保先生が公明党の九州比例”なのですが、様々な考え方の違いから、私は自民党を離党することになりました。

あの時、何度も「下地さん、もう一度、九州比例の1番でお願いできませんか?」との話がありましたが、私はそれを認めることはできませんでした。

政治は生き物で様々な化学反応がありますが、今日、自民党・公明党の皆さんが政党として政治の大きな分岐点として、“風雪”を乗り越えて今があるというならば、“衆議院沖縄一区の選挙協力から自公連立が始まった”こと、そして“白保台一先生と私・下地ミキオの政治決断があった”という歴史を確認すべきだと思います。

「選挙で熾烈に戦えば戦うほど、お互い同士が尊敬し合える関係になる」山中貞則先生が私に話した言葉です。

山中先生は二階堂進先生と同じ選挙区で、半世紀近く同じ自民党で選挙を戦ってまいりました。

その結果、敵に対する考えが感情だけではないことを知り、前述した境地に達したことで、政治のダイナミズムをつくることになったと思います。

私の拙著「サトウキビ畑から来た大臣~郵政と沖縄をめぐる連立政権の三年三ヵ月」にも書きましたが、当時、私は国民新党の幹事長として郵政民営化法改正案を成立させる中心的な役割を負う中において、公明党の協力を得ることで法案を成立させることができました。

その当時、公明党の漆原国対委員長から「公明党の理解を得ようとするならば、白保先生の理解を得ることが先ではないか」というアドバイスをいただき、沖縄県立博物館・美術館の館長を務められていた白保先生を訪ね、法案の説明をし、理解をいただきました。

そして白保先生自ら漆原委員長にそのことを伝え、郵政民営化法改正案が公明党の絶大なる支援の下に成立したのです。

熾烈に選挙を戦った白保先生に理解していただいたことを振り返った時、「あの時もう一回、私が比例に回っていれば、白保先生の政治家人生も、私の“風雪”の政治家人生も違ったものになっていたかもしれないということを考えます。

“自公連立20年”という時間は、私にとっては“思い”“想い”ものであります。

                      衆議院議員
                      下地ミキオ
                     

※※※1週間前に配信されたメールマガジンを転載しております※※※
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