【オープニング】
ひろみ/ミキオポスト OnRadio。
今週のこの番組は、8月13日に放送しました平和についてのお話を再放送でお届けいたします。
8月13日木曜日です。皆さん、こんばんは、本村ひろみです。
ミキオポスト OnRadio、メインパーソナリティは、この方です。
ミキオ/下地ミキオです。よろしくお願いします。
ひろみ/ミキオさん、今週もよろしくお願いいたします。
ミキオ/はい、お願いいたします。
ひろみ/今週はすてきなゲストの方をお迎えして、70年目の終戦の日を前に特別企画ということで平和について60分考えてまいりましょう。
ミキオポスト OnRadio。
この番組は北部地域はFM本部、中部地域ではFM21、南部地域ではFMレキオ、そしてFMくめじまの4局ネットでお届けしております。
また、インターネットでは世界中で配信をしております。
そしてきょうも、アイセック・ジャパンさんのサービスを利用してリアルタイムで文字情報を発信しております。ぜひサイト、ミキオポストのトップページからごらんください。
きょうの1曲目は、この曲です。サザンオールスターズで平和の琉歌。
♪ サザンオールスターズ/平和の琉歌 ♪
【ゲスト:対馬丸乗船者 上原妙さん、遺骨収集ボランティア 具志堅さん】
ひろみ/ミキオポスト OnRadio、お届けしております。
今週のゲストですが、ミキオさんも大変よく御存じでいらっしゃいます、上原 妙(うえはら たえ)さんにお越しいただいております。
上原さん、まず御挨拶いただけますか。こんにちは、お願いいたします。
上原/こんにちは。
ひろみ/御紹介させていただきますと、妙さんは13歳のときに学童疎開の1人として対馬丸に乗船されたんですよね。
上原/はい。
ひろみ/昭和19年の8月22日、終戦の1年前にアメリカの潜水艦の攻撃で対馬丸が沈没したわけですが、海に飛び込んだ上原さんは、奇跡的に救助されたということで。そのあと、宮崎県の疎開でもいろいろ苦労されたと伺っています。
今は、本当に見るからに大変美しく、若々しくお元気でいらっしゃいますけど。
上原/おかげさまで。美容業をやっておりますので。いつも若くしてないと(笑)
ひろみ/今は沖縄のブライダルを本当に引っ張っているモード・マリアージュさんの代表も務めていらっしゃるという上原 妙さんです。
そして、もう1人御紹介をいたします。遺骨収集ボランティア、ガマフヤーの代表、具志堅 隆松(ぐしけん たかまつ)さんです。具志堅さん、きょうは、ありがとうございます。
具志堅/ありがとうございます。具志堅でございます。
ひろみ/プロフィールを御紹介しましょう。
具志堅さんは、1954年那覇の御出身でいらっしゃいます。1982年以来、ボランティアで沖縄における遺骨収集活動を続けていらっしゃいます。NPO県民の手による不発弾の最終処分を考える会の代表を務め、現在は、沖縄戦遺骨収集ボランティアのガマフヤーの代表を務めていらっしゃいます。
終戦の前になりますと、具志堅さん取材のほうも多くなってくるのではないでしょうか。
具志堅/はい、そうですね。どうしても、6月23日そして8月15日の前になると、本土のマスコミも含めて取材が殺到します。
ひろみ/特に今年は70年を迎えるということもありますので、ここからは一人ずつ伺っていきます。
上原さんは、大変ミキオさんとも昔からよく御存じでいらっしゃるということで。
上原/対馬丸記念館をつくることができたのは、創設できたのはミキオ先生のおかげなんですよ。はっきり申し上げます。
私、遺族会の父兄の方も、みんなお歳で。私でも85歳でしょ。そのお父さんといったら、この間も両陛下がいらっしゃったときに、会長だった先生がいらしていましたけど、とても元気で、あれでしたけど。何というのかな、やはり子どもを亡くされた対馬丸の会長というあれは矍鑠(かくしゃく)(?)たる。今、コザにいらっしゃるけど、この間お会いして全く変わらないので。私は生き残りだから、なるべく逃げ回っていたのですけど。でも、ミキオ先生のおかげで対馬丸記念館をつくることになりました。
そして、東京を行ったり来たりするのも先生のおかげで。参議院会館に行ったら、先生の事務所はずらーっと陳情書が並んでいます。そしたら、あの頃は、仲村 正治(なかむら せいじ)とか、いろんな方がいましたが、先生のところだけ陳情書がずらーっと並んでいたんです。それを見て、私は目を見張ったんです。あー、この先生ならやってくださるかも、って心強くて。ミキオ先生のおかげで、対馬丸記念館できましたので、本当に感謝しています。
ひろみ/ミキオさん、この対馬丸についてなんですけど。
ミキオ/対馬丸記念館は、当時の喜屋武会長、きょうお越しの上原 妙先生なんかが、本当に情熱を込めてやられたんです。
初めは対馬丸は慰霊祭を3カ所でやっていたんですよね。3カ所でやって、ここで沈没したんじゃないか、ここで沈没したんじゃないかという所を回って慰霊祭をしていたんです。
慰霊祭をする場所をまずは確定してくれというのが、僕らに対する陳情でした。その次に2つ目は、国の責任で慰霊祭をしてくれというのが2番目の話でした。
それをやることになって、まずは慰霊祭をやることになったんです。慰霊祭をやりました。しかし、そのときは3カ所で拝みましたね。3カ所で汽笛を鳴らして、3カ所で花束を投げるということをやりましたが、妙先生なんかが、どうしても場所を自分たちの仲間が安らかにねている場所を確定しなさいということがあって、それをやることになっています。
当時の鈴木宗男先生が沖縄開発庁の大臣でしたが、おもしろいんですけど。沖縄開発庁の予算で、沈没船を対馬丸を探すことになったんです。普通だったら、厚生労働省の予算でしょ。それでやろうという話になって、科学技術庁に深海2000という、ものすごく潜れる2000mまで潜れる船があるのですが、これを1回潜らせるお金しか予算がつかないんです。1回のチャンスだけなんです。
この1回のチャンスにどこに潜らせるかということを決めるために、チームをつくって、まずアメリカのボーフィン(?)という潜水艦の生き残りの人が対馬丸を沈没させるとき、どういうのを見たかという、生き残りの証言を取りに行く。それに海上自衛隊で話をして、位置を確認して60年間で船がどこまで流されるかを計算したんです。全部計算して、6カ月かけて、みんなで計算してここに決めたと。ここを潜るぞっと。1回潜って、見つからなかったら、もう終わりだから。
それで1回、船を深海2000を下ろして潜らせたら、対馬丸という看板が写真に写ったんです。1回で。これは言えば奇跡なんです、奇跡。そうしたら当時の深海2000をやっている科学技術庁の母船があるでしょ、母船からどんどん下にロープを吊して、2000を潜らせるんですけど、このロボットが対馬丸と写した瞬間に母船の周りを虹が包んだというんですよ。うわーって虹が包んで、すごかったらしいです。それで、船長も船員もみんな泣いちゃって。これで奇跡が起こって、対馬丸がそこで発見されたんです。あの写真が出てきたんです。
この人たちが那覇港に帰ってきたので私は迎えに行って、それでみんな泣いていて感動的なシーンでした。その写真を当時の橋本総理大臣が天皇陛下にお届けをして、対馬丸の詩(うた)を天皇陛下が歌われたというようなことになったんですね。
あとこれドラマがいっぱいあるので、本当にすごい、皆さんの思いが奇跡の発見を生んだという意味では、喜屋武会長や上原 妙先生の情熱、それと海の中で安らかにねむられている方々の思いが、本当に一つになった瞬間だったと思いますね。
上原/本当に、あんなに現場まで行って調べてくださったというのは、初めて聞いてびっくりしています。
ミキオ/当時の海上保安庁の人たちとか、海上自衛隊の方々とか、よくみんな頑張ってくれましたよ。ありがたかったですね。
上原/下地先生だったから、できたのよ。精神的に本当にそこまでやってくださる方というのは、なかなかいませんし。付き合えば付き合うほど深みが出てくるし、何ていうのかしら、助かった甲斐があったなって。先生とお会いできて、対馬丸記念館ができたのも、私本当に人生で一番の宝物と思っています。
ミキオ/ありがとうございます。また、記念館大事(だいじ)にしてきましょう。
ひろみ/具志堅さんのほうからも、対馬丸についてお話があるということですが。
具志堅/ミキオさん実はですね、去年私たち奄美大島に行って、対馬丸の被害者の遺体が漂着していた場所を全部回ったんです。そして、どこに何体、どこに何体、どこに何体というふうに。それは地元の人たちが全部埋葬していたのを、戦後何年目かに早い時期に掘り出して、それで沖縄から来た対馬丸の御遺族の方たちに遺骨を105体渡しているんです。沖縄に105体は帰ってきていますよね。
その中で1箇所だけ遺骨が見つからなかった場所があるんです。要するに埋めたけど、掘り出そうとしたけど探せなかった場所があります。そこの埋めるのに関わった方は、こういうふうにおしゃっていたんです。もしかしたら、台風で埋めた場所が全部波にさらわれて持って行かれたのかね?ということをおっしゃていたんです。
私たちはその場所に、川の工事で1箇所立て水(?)を切っている場所があったんです。海岸というか、砂浜に。そこを掘ってみると、そこの地層は動いていないんです。台風で攪乱されている様子がないんです。もしかしたら、あとで発掘するときに場所がずれているか、掘り足りないか、そのようなことがないかなというふうに感じました。
それでガマフヤーとして、この場所だけは、ぜひとも試しに掘ってみたいと思っています。探せるか探せないかじゃなくて。台風で流されたというのであれば、全部そこが砂があって、細かい砂利があって、川から流れてきた玉石がちゃんと順序よく並んでいて、全然、攪乱された様子がないんです。それであれば、ここは掘ってみる価値があるなと思ったので、今、私たちの中でそれは一応計画しようと思っています。
ミキオ/対馬丸の漂流して流された方々の遺体ですよね。
具志堅/そうです。これは奄美大島の西海岸で宇検(うけん)村になるんです。その場所で、埋葬に関わった方まだ生きているので、その方ともう一度というか…前回行ったときはその方風邪でお休みになっていて、自宅に行きましたが直接は聞けなかったんです。
その方の言うように、実際これが台風で流されたかもしれないし、まだ残っているかどうかわからない。しかし、まだ残っている可能性があるのであれば、私はこれは掘るに値すると思っているんです。これをどうにかして、少し涼しくなってから、また現場に行って地元の了解を得て、ぜひ掘ってみたいと思っています。
確か50体あまり埋めてあったというんです。埋葬に関わった方、オオシマアントクさんだったと思いますけど、その方の御自宅まで私たち訪ねていったんです。だから、この方、当時18歳だったということで今は高齢なので、なるべく年内には着手したいなと思っています。そのことについては、ぜひ、もしよかったら協力お願いします。
ミキオ/大事(だいじ)ないい話ですから、しっかり協力させていただこうと思います。
ひろみ/55体ですとね。
具志堅/確かこの場所というのは、また残っているんです。
ひろみ/ちょうど、具志堅さんのお話が出たところで、具志堅さんの取り組みについても戦後処理の現状を伺っていきたいのですが。
具志堅/沖縄戦では、犠牲者は20万656人と言われています。日本軍、沖縄の住民、アメリカ軍、そして朝鮮半島から連れてこられた人たち、それから中国人、台湾人、それぞれいます。その中で、私たちは一人でも多くの遺体を、今は遺骨となっていますが、その遺骨を探し出して、その遺骨をどうにかして家族の元へ帰そうということでやっています。
家族の元に帰すためには、まず出てきた遺骨に名前があればいいのですが、名前がないのがほとんどです。兵隊ですら、100体掘り出して5体もないです、名前のある遺品を持っている方は。ウチナンチューに至っては、名前の遺品を持っている方は全くの0(ゼロ)です。これは、70年経って名前が書いてあって、残る物は万年筆とか印鑑、木の印鑑ではなく水晶とか水牛の角(つの)だとかそのような印鑑ですけど、高級な印鑑は同時ウチナンチューは持っていないです。
遺骨は、毎年たくさん見つかるんです。年間100体以上見つかり続けています。これが、減っていく様子がないです。そういう意味で、戦後処理はまだ全然終わっていないと言っています。
身元がわからない遺体を、その人を身元を特定するためにどうしてもDNA鑑定が必要です。そして、そのために実はミキオさんとも何度か厚労省に足を運んでお願いをしています。去った7月7日も一緒に行っていただきました。わざわざ、厚労大臣まで会えるようにミキオさんが考えてくれていました。まだまだ道半ばです。これから、まだやることがありますので、これからも一緒に協力を仰ぎたいと思います。
上原/私の姉も、ひめゆりの女子師範だったんです。どこで亡くなったかわからないけど、今のひめゆりの館長をしている島袋さんが、どこかって口でおっしゃるけど、一緒に行ってくれない?って言ったら忙しいと言われて、もしあれだったらお願いしたいのですが。
具志堅/よろこんで。
私、じゃあ、島袋ヨシコさんに、上原さんのお姉さんが亡くなったと言われている場所でどの辺ですか?と聞けば、大体場所はわかると思いますので。それを確認した上で、現場を当たってみようと思います。
上原/よろしくお願いします。
私ね3人兄弟で、兄がテニアンで戦死、兵隊で。戸籍が名古屋でしたから。姉は女子師範でひめゆり部隊ですが、どこで亡くなったかわからなんけど、この島袋さんが一緒だというのはわかるんです。
具志堅/これ何日頃って言われています?
上原/それは聞いていないです。あの方も忙しいので。この間も、場所を聞いているんですが、忙しいようで。
具志堅/私が訪ねてから聞いてきますね。
上原/ナシロミエと言います。
具志堅/わかりました。
上原/うちはみんな5つ違いで、私一人が生き残って、こうして沖縄に帰ってきて、対馬丸のあれで。おかげさまで、ミキオ先生のおかげで記念館もつくらせていただいて。姉のことがいつも気になって。島袋先生が亡くなった大体の場所はわかるそうですので。
具志堅/これ、ぜひ当たってみますので。
上原/お願いいたします。
ひろみ/ミキオさん、いろいろとこういう話をすると、まだまだ沖縄の戦後処理終わっていないですね。
ミキオ/70年を今年迎えます。
まだ私たちは、沖縄に艦砲射撃で落ちた不発弾の処理がまだ終わっていませんよね、これが1点目。
2点目に、ガマフヤーの具志堅さんがやられている遺骨。まだまだというか、具志堅さんから詳しい数字があると思いますが、これも全くできていない。しかも、遺骨をちゃんと帰せるようなDNA鑑定ができていない。
この前、私たちが厚生労働大臣にいったら、厚生労働省の言うことだからこう言われます。DNAの鑑定をするというのは、相手もいないとDNAの鑑定はできないじゃないですか。お互いが照合しないとできないんです。この地域で、自分の身内がなくなりましたよ、遺骨が出たけど、あなたこの地域で自分の親族が亡くなったという人はいませんか?と言って、その人からDNAを取って、遺骨収集をするわけです。でも、死んだ場所が間違ったら、教えられた場所が間違ってたら、鑑定しても合わないから、照合ができないわけです。
私たち、今回言っているのは、沖縄で自分の親族が亡くなったと思われる方々は、DNA鑑定を全部出しなさいと。それを厚生労働省がちゃんと置いといて、遺骨が出るごとにこのデータと照合していくのは、厚生労働省でできるのではないかと。なんで、これをやらないんだと、この前具志堅さんと言ってきたんです。これも、まだまだできていないから、戦後処理が残っています。
戦後処理というと、こういうのと同時に、きのうも翁長さんと管さんが話をして1カ月間基地を止めると話をしましたけど、この問題も基地が残っているということも戦後処理が解決していない、1つの要素です。
こういうふうに、私たちが、まだまだ70年の時間の中においても、私も54年しか生きていませんから、戦後生まれですから、その意味でこの世代が戦後処理をどうするのかということを真剣に考えないと、だめだということを改めてお二人の語り部の上原さんやガマフヤーの具志堅さんがやられている行動を見ていると、政治がしっかりサポートしていかないといけないと思います。
上原/ありがとうございます。もう、本当に。
具志堅/ありがとうございます。
ひろみ/こうやって、思いがたくさんあるうちに、どんどんおっしゃっていただいたほうが。
上原/兄はテニアンで戦死して、向こうまで行きまして。タマシーウンチケー(?)したんですけど。姉は沖縄県なのに、どうしてできないのかなと思って。島袋さんを頼って、どうしてもお願いしますと、この間も。
ひろみ/こういう思いの方が本当に、探したいという気持ちをどうにか***したいですよね。家族の皆さん、待っているわけですから。
具志堅/例えば、もし上原さんのお姉さんが糸満の真壁で亡くなったのなら、既に真壁から出ている遺骨があれば、その遺骨と上原さんと。
上原/真壁ではなく、山がありますよね。
具志堅/言われていた場所から出ている遺骨があれば、上原さんとDNA鑑定することできますよ。今まで、そのようなやり方で、戦死したという場所から、例えば、浦添前田で戦死したなら、浦添前田から出た遺骨がありますよね。その遺骨と遺族とやってくださいというやり方で、やっていただいてます。
上原/あれ、何岳と言いますかね?南部の…。わからない。
具志堅/いいです、いいです。あとから、聞かせてください。
ひろみ/現地のそのまま一緒に足を運ぶのもいいかもしれませんね。
THE BOOMで島唄。
♪ THE BOOM/島唄 ♪
【平和についての想い、これからの未来】
ひろみ/ミキオポスト OnRadio。
今週のこの番組は8月13日に放送いたしました、平和についてのお話を再放送でお届けいたします。平和の思いについて、伺っていきたいのですが。
ミキオ/きょう、8月6日。広島の原爆の式典があって、広島の市長さんがいろいろお話をされてました。平和宣言を。聞いていて思うことは、なんでこうやって世界の中で唯一原爆が落とされて、こういう被害があるということをわかりながら、核兵器を人を殺すための手段、戦争の手段として使うことを世界に辞めさせられないのかなと素朴な思いを持ちますよね。あの物はいかに危険かということがわかる。今度の福島の原発を見ても、原子力というものの恐ろしさというのを感じます。
世界ではこれが、原発を廃止する条約が成立していんですよ、皆さん。ここを政治家が本気で成立させないと、だめなんです。オバマ大統領は、大統領になったときにノーベル平和賞をもらいました。それは、原発の破棄を言ったんです。何年までに原発を全部、アメリカも破棄すると言って、ノーベル平和賞をもらったんです。8年やって、彼はできていないんですよね。できていない。
だから、政治家がどう動くかというところをやっぱり僕は、きょう安倍総理が9月の国連総会で自分は強く言いたいとかって話していましたが、本気で日本がリードすべきだよね、世界を。原発に関して。それが、ないと思うんだな。被爆国という、これ唯一だからね。被爆国は、世界でないんですよ、日本だけなんです。広島、長崎。これは、もっと日本の役割みたいなのがあるのではないかと。これをやるために、批准するために、日本が外交交渉でもっとダイナミックにやるべきだと僕は思います。
具志堅/まさにそのとおりだと思います。世界中でこのことを強く言っておかしくないのは、日本が真っ先なんだと思います。その割には、随分遠慮をしているなあというか、遠慮というか後ろ向きになってしまっていないかな。むしろ、世界中のためになることを率先していいのになと思います。
ミキオ/この前、イランの核開発の問題でアメリカの国務長官とか、ドイツのメルケル首相とか、あれだけの人が集まって、夜中まで会議をやって合意したじゃないですか。日本はいないんだよ。日本が、中国は横に外務大臣が座っているけど、日本は座っていないんだよ。僕はああいう会議で、日本もいないとだめだと思うんだね。これはヨーロッパの話ではなく、日本がいて、日本が説得するのが説得力があると思うんだよ。それが、できていないですね。私は、そういうところをもう1回、手直ししていかないといけないと思います。
具志堅/ぜひ、お願いします。今のミキオさんが言っていたことは、まさにそのまま、どこでも通用すると思います。
ミキオ/やっぱり僕らの政治家の役割みたいなのを、もう少し…。特に僕ら沖縄選出のものは、しっかり発信していかないといけないというふうに思っているので、このことについて、また頑張ってやっていこうと思いますね。
ひろみ/上原さんのほうからも、平和についての思いを。これからの未来について、考えていることがあれば。
上原/今の子どもたち、こんなに全てが整えられて何の不自由もなくきていますけど、私がこういうふうなお話をしても、ぴんとこないと思うんです。ですから、できたら…例えば、本にこういう戦争というのがどうだったという過去のことを、今の小さな子どもたちにもわかりやすいように、いろんなそのような面を教育の面でもやってほしいと思いますね。特に沖縄の場合は、家族にもいっぱいいますので、実際に手を取るようにしてわかると思いますけど、私が努めてお話をしていますけど、なかなか、ぴんとこないみたいですから、それを戦争というのは、こんなこんなで、どれだけ、どういうふうに犠牲になったということを実際に本にして沖縄だけでもいいですから、教育の面でも。
ひめゆり部隊とか、何部隊とか、みんな学校の人たちが戦死していますでしょ、男の人も、女の人も。この戦争に加担したという…結局、学童疎開でも、対馬丸でも子どもたちを絶やさないつもりで疎開させたと思うんですよ。
向こうに行っても、その体制は整えられていなかった、はっきりいって。学校の校舎に入れられて、毎日の食事も…私が行ったところは田舎だったからいいですが、農家に行って食料を買っても、農家としては兵隊のほうに出さないといけないからと言って、悪い物しか売ってくれないわけです。引率の先生と一緒に買い出しに行ったり、あのときは空襲には遭いませんでしたが。高等科を卒業しない前に、学徒動員で宮崎の工場に繭(まゆ)の糸を紡ぐところに行きました。そこでは、食事が不自由なく食べられたのですが、学童疎開の時は自分たちで買い出しに行って、自分たちで炊事してやっていました。小さいながらも。こういうあれで、助かったという面もありますけども、やっぱり小さいときから、こういうことも本にしてほしい。
今の若い子たちは贅沢で何もわかりませんし、物を大事(だいじ)にするという習慣も。地域的に沖縄というところは、日本からちょっと離れていますし、いろいろな面で違うところがたくさんあるんですね。そういうところを私が今生きている間に教えてほしいです。
ひろみ/名前の声を残していきたいという思い、ぜひ進めてほしいです。
具志堅も平和について今考えていること、平和への思いを聞かせてほしいんですけど。
具志堅/まず、沖縄で戦争があって、多くの人が亡くなったということ、このことをまず地元の人間が知るべきだろうということ。沖縄にはまだ、その現場が残っています。実際に遺骨が出てくる現場もあります。そういう現場をできるだけ若い人が訪ねてほしい、そして亡くなった人を遺骨を見るという言い方は、私はしません。亡くなった人に会ってほしいという言い方をしています。そして、亡くなった人に会うことによって、なぜその人がそこで殺されなければいけなかったのか、そして、私たちは二度とこういう目に遭わないという担保を手にしているのだろうか、そのことを考えてほしいと思います。
そして、亡くなった人をぜひとも最後の、その人にとって一番の希望であるであろう、自宅に帰らせてあげるというか、そういうことを実現するべく、若い人たちにも意識を持ってもらうためにもできるだけ、発信していきたいと思っています。
ひろみ/強い思いは絶対にみんなに心に今通じていると思います。
ミキオさん、お二人はそうですが、沖縄ではまだこういう熱い思いで帰ってきてほしい家族にと思っている方もいっぱいいらっしゃるわけですよね。
ミキオ/もちろんですよね。だから、僕らは少し経済という概念とか、生活という概念というものに、ちょっと沖縄は他府県に比べて所得も低いし厳しいから、まずはご飯を食べなきゃみたいな感じになっています。
上原 妙さんが今お話あったように、今少し沖縄が落ち着きある70年目だから。これ100年目にはある程度、この2つの問題、遺骨の収集と不発弾の処理というのが、次の世代には絶対につながないで、この世代で終わらせるというようなことを戦略的に政治がやっていく。
そして、次の世代にどうやって伝えていく、今お話があったように、どう伝えていくか。本当に伝えるのは難しいよ、これ。経験のない人たちというか、僕ら1世代でしょ。戦争経験した次の世代ですから。それまではいいけど、その次の私の娘の世代におじいちゃん、おばあちゃんのことを伝えるというのは難しいよ。これは学校教育でやるしかないんですよ。だって、お父さんが僕だから。そしたら、うちの娘が20歳でしょ。これが、25とか30になって、子どもができたら、僕は戦争経験者じゃない、おじいちゃん、おばあちゃんになる。今は自分の親だからわかるよね。自分のお父さん、お母さんから僕らは聞いている世代だから、実感がある。
具志堅/ミキオさん、ここで一つ提言なんですけど。私は、この現場にきのうもそうでしたが、若い人たちを体験発掘したいということで案内しています。それは極力、断らないようにしています。そういう現場をこれから先、まだまだ出てきます。それを効果的に教育の中に組み込んでいくというふうな。
ミキオ/これ、大事(だいじ)だと思います。
具志堅/すぐに公的な形にはならなくても、プライベートというか私的な形でも、そういうことを続けていきたいと思います。
そのことで子どもたちが、全く戦争を知らない子どもたちが、現場に行くと、声を失います。中には、泣き出しそうな子どもたちもいます。でもそれはそれで子どもの心、トラウマを残さないように傷つけないようなやり方で、しかし、しっかりと受けとめていただけると思っています。そういうのを、できるだけ希望するというか、意識のある子どもたちには、現場で受け入れたいなと思っています。
そこら辺は、これから先、戦争をどう検証して継承していくかということについては、沖縄はほかの他府県と異なるのは、現場がまだ残っているということですから、その現場を私は現場で亡くなった人と会ってもらうことによって、やはり意識は変わると思っています。
ミキオ/米軍基地の運動から、平和を紐解こうとするのが多いです。反米というか、反基地勢力の提案イコール平和主義みたいなところがあるんですよね。
具志堅/私は戦争から平和を見ていただきたいと思っています。
ミキオ/そうそうそうそう。ここ、ここなんだよ。僕もそう思うんだよね。
だから、うまく言えないけど、戦争のあった現実から平和を紐解いていかないと。私は、この平和論争がイデオロギー論争に変わる可能性があると思います。だから、遺骨収集とか不発弾の処理とかということは、誰しもが否定できないものなんです。
具志堅/みんなが被害を受ける可能性があるし…。
ミキオ/これを否定する人たちはいないんです。でも、米軍基地は考え方が違うわけ。考え方が違わないものから、平和を紐解くという、今の具志堅さんの話は僕は非常に説得力があると思います。
ひろみ/きょうは本当にいろいろとお二人からお話を伺って、私初めて聞いたことがあり、たくさん勉強になりました。お話をしてくださいまして、まだまだ熱い思いがあると思います。時々、またこうやってミキオさんの番組にゲスト出演をお願いしたいと思います。お話をしてくださっていますのは、遺骨収集ボランティア、ガマフヤーの具志堅 隆松さん、ありがとうございました。そして、上原 妙さんでした。妙さん、ありがとうございました。
具志堅/ありがとうございました。
ミキオ/ありがとうございました。
ひろみ/さんごで、いのちのリレー。
♪ さんご/いのちのリレー ♪
【エンディング】
ひろみ/今週のミキオポスト OnRadioは、8月13日に放送いたしました平和についてのお話を再放送でお届けいたしました。
最後になりますが、ミキオさんから元気の出るひと言で番組を閉めたいと思います。
ミキオ/元気の出るひと言は、今回やっぱり、戦争を起こさないとか、戦争を抑止していくとか、世界が平和になるとかというのが、これが一番の元気の秘訣ですよね。これなしには元気という言葉は精神的にも肉体的にもあり得ないんですね。人同士が殺し合いすることに元気なんて表現はできませんし、悩んでいるときに元気という表現もないから。
だから、どうやって元気の源である平和をつくり上げていくかということ、あらゆる思想やイデオロギーや考え方があるかと思いますが、最後は話し合う、これが大事(だいじ)です。
今回、翁長知事と安倍総理が話し合うといって、1カ月間工事を止めて話し合うと、これはすごいことなんです。180度考え方の違う人が話し合おうということが、ここが平和の生まれる最大のポイントです。俺はお前と考え方が違うといって話し合わないというのでは、同じことの繰り返しになります。この1カ月間どうなるかわかりませんが、今回の話し合いをものすごく期待しています。ここに政治家としての最大の冥利があるんじゃないですか。話し合う。外交努力によって、戦争は防げる。会談によって交渉によって戦争が防げる。これと同じように。
この1カ月間の国と沖縄県の交渉というのは初めてなんです、交渉とつくものは。要請とか抗議とかいうのはあったけど、国と沖縄県が辺野古について交渉するというのは初めてなんで、これを成功させる。それが平和、それが元気になっていくというふうに思いますね。
ひろみ/ありがとうございました。今週は平和をテーマに特別企画でお届けしました。
ミキオポスト OnRadio、御案内は本村ひろみでした。
そして、メインパーソナリティ。
ミキオ/下地ミキオでございました。ありがとうございます。
ひろみ/ありがとうございました。
上原・具志堅/ありがとうございました。
ミキオ/上原さん、具志堅さんありがとうございました。
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