1.なぜ被災地へ行ったのか
下地幹郎の政治の哲学は、「現場主義」であり、現場を見ずに政治家が防災をかたることはあってはならないという強い思いと、現場に行くことで被災者に寄り添うことになると信じております。
私はこれまでも、29年前の阪神淡路大震災では発災3日後、13年前の東日本大震災では発災8日後、8年前の熊本地震では発災翌日、5年前の西日本豪雨では発災2日後に現場入りしました。現場で見たことを基にして、通常の消防車両では走行が困難な場所で活動を行う全地形対応水陸両用車「レッドサラマンダー」の配備についての提案を行い、避難所のあり方についての提案を行いました。それらの提案の全ては、現場を体験したことから生まれたものであり、現場から新しい災害対策についての提案が生まれたのです。防災担当大臣を務めた経験のある下地幹郎としては、「尊い命を守る防災国家」「災害に強い国家」を創るためにも、今回の現場視察によって、新たな提案ができることにもなりました。
私たちの現地視察の鉄則は、「自己責任」「決して被災地の皆さんに迷惑をかけない」ことであります。現地の行政、消防、警察、自衛隊など、被災地で支援活動を行っていらっしゃる皆さんは、混乱の中で頑張っています。そんな皆さんに視察の段取りをお願いしたり、状況説明をお願いしたりすれば、支援活動の邪魔になることは間違いなく、そんなことは絶対にしません。また、現地視察中に何か起きたときの責任も自己責任。視察に関する全ての責任を自らが負うことを明確にする。これまで幾度となく災害現場入りした私の哲学であり、そこが大事なことなのです。
今回の能登半島地震においては、岸田総理は発災から約2週間が経った14日に、ようやく現場入りしました。公明党、立憲民主党、日本維新の会、日本共産党、国民民主党など各党の代表は、いまだ現場入りしておらず、公党の代表5人が現場に入ることで、交通渋滞が起きるかと言えば、そんなことにはなりません。現場を見ないままに、災害対策のあり方を議論することのほうが不可能ではないでしょうか? 現場で自ら体感することが、災害対策、そしてまた必ず起こるであろう自然災害に対応するための防災対策につながることを、私はこれまでの経験から身に染みて知っています。進化しない災害対策の最大の要因は、「現場を見ない政治家の現場感覚のなさ」だとしか言いようがありません。
2.視察日程
- 1月8日(月)
10:48~13:00 東京駅→富山駅(上越・北陸新幹線 かがやき525)
13:00~18:00 富山駅からレンタカーで石川県輪島市へ向かう
国道8号を西へ、高岡で160号に乗り換えて北上
上越自動車道で七尾へ、国道249号で穴水、輪島市へ
18:00~ 石川県輪島市
輪島朝市
輪島港
輪島市立鳳至小学校
- 1月9日(火)
6:00 富山県を出発し、レンタカーで石川県珠洲市へ
10:30 石川県能登町
比那漁港
団地
障がい者避難所
石川県珠洲市
富山空港へ
18:30~19:35 富山空港→羽田空港(ANA322)
20:55~23:45 羽田空港→那覇空港(ANA479)
3.視察報告
- 輪島朝市
石川県輪島市の輪島朝市は、平安時代から続く朝市で、日本三大朝市の一つとされています。輪島朝市は、約360mにわたって200店舗以上の店舗が立ち並ぶ相対売りの商店街で、毎朝、地元の皆さんや観光客で賑わっていたといいます。
その輪島朝市は、今回の能登半島地震で大規模な火災が発生し、鎮圧宣言が発表された2日午前までに、約4千平方メートル、約200棟が焼失したとされています。
一面焼け野原となった輪島朝市を視察いたしましたが、広大な敷地が一瞬にして焼けてしまうほど、一気に火が回ったのだろうと思います。
その中で、消防や警察の皆さんが、救助活動、検証を続けており、非常に胸が痛む現場でありました。
- 輪島港
輪島港は、約250隻が係留されている石川県内でも大きな港です。
なぜ港を視察したかというと、「災害対応に海からアプローチ出来なかったか」ということを検証したかったからです。
岸壁は隆起し、デコボコにはなっておりましたが、応急処置が施され、海上自衛隊舞鶴基地を母港とする多用途支援艦「ひうち」が接岸し、運んできた救援物資を陸揚げしたり、給水支援をしたりしていました。このことからしても、海からのアプローチは可能ではないかと考えております。
- 輪島市立鳳至小学校
輪島市立鳳至小学校の体育館は、輪島市の指定避難所となっており、約400名の避難者が身を寄せていましたが、非常に胸が痛むものでした。
13年前の東日本大震災の時と同様に、水がなく、トイレの状態が悪く、炊き出しはあるものの温かいものが十分に食べられないというような状態が、発災から1週間経ってもまだ続いていました。東日本大震災を教訓に、防災に取り組んできた成果はどこにあるのだろうか。正直な思いでした。
過去の災害からもっと進化した避難所を想像していましたが、まったくできていませんでした。避難所生活を余儀なくされている皆さんが、風呂にも入れず、毛布にくるまっている姿は、私の脳裏を離れません。
- 能登町 比那漁港
飯田湾の南側に突き出た岬の先にある比名漁港は、岸壁が隆起し、デコボコになっていました。防波堤も破壊されており、津波の恐ろしさを改めて感じるものでありました。漁港周辺は、ほとんどの家屋が津波によって倒壊しており、東日本大震災の津波と同じことが、ここでも起こったことが分かります。
- 能登町 比那漁港近くの団地
被災した方からお話を伺うことができました。地震発生時、家族で団地内の自宅にいたとのことでしたが、子どもはベッドの下にもぐらせ、当人と妻は机の下にもぐったといいます。最初の揺れはなんとかしのげたものの、二回目襲ってきた揺れは相当大きく、恐怖を感じたそうです。団地は海沿いにあり、東日本大震災の津波を思い出したことから、子どもと妻を車に乗せ、高台へ避難したところ、その10分後に自宅団地を津波が襲ったということでした。津波からの避難は、一分一秒の闘いだということを感じました。
- 障がい者避難所
知的障がいを持つ方々が身を寄せる避難所に行きました。大地震という恐怖を体験し、また自宅と環境が違う避難所生活で落ち着かず、大きな声を出したり、ウロウロしたりするのは仕方のないことでありますが、そういった方々をしっかりとサポートしている皆さんがいました。
責任者のお話を伺いましたが、排泄をサポートすることが一番大変だとおっしゃっていました。障がいをもつ皆さんを、どのように安心させ、環境が違う中でも落ち着かせるかという彼らの活動を、今後にしっかりとつなげていかなければなりません。共同生活に向かない人を災害から守るために、一人部屋に分ける、インフルエンザなどの感染症を患っている人を分ける、決して広いとは言えない施設の中で、細かく部屋を分けながら障がいを持つ方々に安心をつくっておられました。しかしそこまでやっても、やはり共同生活に向かない人をどうするかということで、試行錯誤されていました。
- 石川県珠洲市
震源地に近い珠洲市内に入ると、多くの倒壊家屋が揺れのものすごさを物語っておりました。珠洲市は、一昨年6月と昨年5月にも大きな地震に襲われ、復興に向けて頑張っていたところだっただけに、住民はショックを隠しきれないようでした。
自衛隊の皆さんが、給水、お風呂、炊き出しなどを頑張っておられましたが、本当に感謝であります。自衛隊への感謝の声は、私が現地入りした2日間で、お会いした全ての方々から聞こえてきました。また、消防、警察、医療関係者、行政、全国から応援に駆け付けた行政職員の皆さん、ボランティアの皆さんが、車の中で仮眠しながら支援を続けている姿には、本当に頭が下がりました。
4.検証と提案
能登半島地震の被害状況等、まだまだ全貌は明らかになっておりませんが、現地を視察した私の、現段階での検証と提案をすることは、政治家として非常に大事なことだと考えています。この提案を、政府や各都道府県とも共有し、今後の災害対策、防災対策をより強化し、一人でも多くの命を守れるように取り組んでまいります。
1.72時間~初動のあり方~
阪神淡路大震災の教訓から、被災後の3日を過ぎると生存率が著しく低下するため、“人命救助は災害が発生してから72時間が勝負”と言われています。今回の政府の対応は、地震発生が1日午後4時10分であったために全容を把握することに注力し、初動に遅れが生じたことで、72時間を有効に活用できなかったのではないかと思います。5日時点(発災4日後)で自衛隊約5000人、消防約2000人、警察約1100人が、石川県へ派遣されましたが、人命救助には最大の人力が必要不可欠であるにもかかわらず、マンパワーが全く足りていない状況でした。72時間の壁の中で、確実に助けることができた命があったのではないかという歯がゆさを感じています。
【提案】
震度6強以上の地震に関しては、24時間以内に、救助のための3万人規模の自衛隊、消防、警察が派遣できる体制づくりを行うべきです。72時間の壁を乗り越えるためにも、状況把握を見定めてから派遣の規模を判断するという考え方を見直し、震度6強以上の地震に関しては、自動的に、24時間以内に3万人規模の派遣ができる体制を整えることが大事です。
2.避難所支援
被災者支援の考え方は、できるだけ速やかに安全で生活環境が整う場所に移動させるという考え方を徹底すべきであります。東日本大震災時は、避難所の環境を整えるという考え方でありましたが、避難所の環境は、プライバシーや衛生上の課題を含めて、いかなる対応をしても、満足できるものにはならないということは、これまでの経験から明白です。
【提案】
近隣の県・市町村にあるホテル・旅館を確保し、希望者をそこへ移動させる二次避難を、政府が方針決定するべきです。被災を免れた石川県内の地域、富山県、福井県、長野県、岐阜県などの近隣地域で5000超(12万室超)の宿泊施設があることを考えれば、バス、船、ヘリコプターなどを駆使しながら、十分に実現可能です。
また、大型のクルージング船を活用すれば、水が使え、トイレ、温かい食事、温かいお風呂、温かい寝床など、避難を余儀なくされている皆さんを支援することができます。
3.被災者の食糧支援
72時間の壁の中で、自衛隊、消防、警察、自治体職員の皆さんが効率的な救助活動を可能にするため、食糧供給体制を整えることが重要なことです。これまでは、自衛隊や行政による炊き出しが中心的な役割を果たしておりましたが、民間を活用した方法に変えていくことによって、救われる命はより多くなると思います。
【提案】
北陸地方(石川県・富山県・新潟県・福井県)には、全国規模のネットワークを持つコンビニエンスストアが2000店舗超あり、ファーストフードチェーンなどを加えると、十分な食糧供給体制が整うことは間違いありません。その意味においても、地震発生時における食料供給のプッシュ型支援体制を、民間と連携して整えておくことが大事です。
4.仮設住宅
これまでの震災の経験を踏まえて、スピード感のある仮設住宅の建設が必要であることは言うまでもありません。体育館などの避難所は、生活環境が行き届いたものではないために、関連死を招く危険性があります。
【提案】
全国で統一した仮設住宅の建設基準を設け、全自治体が準備しておくことで、災害発生時の他府県からの派遣職員であっても、スピード感を持った対応ができるようになります。また。統一した仮設住宅モデルを設計し、全自治体で建築資材を保有しておくことで、互いに融通できるような仕組みができます。
5.令和6年能登半島地震の復興財源
復興には、膨大な予算が必要になってくることは間違いありません。東日本大震災からの復興では、10年間で国民一人が25万円を負担しました。しかしながら、今日の物価上昇による生活苦の中、同じような増税はできないと思います。また、コロナ対策で財政赤字が深刻化していることからも、次世代の負担を減らすという観点からも、国債発行で賄うことは得策ではないと考えています。
【提案】
生活者の負担を増やすことなく復興財源を確保するという意味で、5年間の防衛費43兆円の中から3兆円規模を復興に充てるべきだと考えております。一人当たり4万円の国民負担によって防衛費を確保するという考え方でありますが、増税で賄おうとしている防衛費を復興に振り分けすることは、国民から理解を得られると思います。
6.国土強靭化・防災施設のあり方
今回の能登半島地震における避難所のあり方が、これまでの震災と変わらないものであったことには、私自身、防災を担当した者として、反省しなければなりません。東日本大震災に続き、能登半島地震においても、津波が大きな被害をもたらしました。また、近年の異常気象から来るゲリラ豪雨や集中豪雨被害を見ても、自然災害は年々増加し、強大化していることから、それに対応できる施設と装備を準備することが必要であります。
【提案】
被害を最低限にするためのハード整備はもちろん必要ですが、いくら防波堤を強化しても、自然の強大な力には勝てないということは明らかであり、そこから一歩進んで「命を守る」「すぐに逃げることができる」体制を整えることも必要です。学校や公民館などを新たに建設する際には、防災拠点と位置付けて国からの補助率を上げ、備蓄(水・電気・ガス・食糧)の充実や、災害用トイレ、体育館で使う簡易テント、簡易ベッドなどを整備する。それらの備品は、普段から部活の合宿などで使うなどすれば、知らず知らずのうちに災害時の訓練にもなります。 また、荒地やぬかるみ、坂路、溝などの不整地や瓦礫や土砂が堆積した場所でも走行することができる全地形対応型の水陸両用車を、各県に10台ずつ配備し、災害時に救助活動が速やかに行える装備を充実させることが大事なことです。
5.沖縄県の対応【提案】
「沖縄の人の温かさ」「沖縄らしさ」が前面に出る支援をすることも、大事なことだと思います。
1.沖縄『愛』のキャンプ
沖縄県が、県内に避難者を受け入れるということですが、現場感覚がまったくない政策だと言わざるを得ません。2万4千人を超える避難者がいることを考えれば、沖縄へ何名を移送できるのでしょうか。
沖縄県が富山県内のホテルを借り上げ、そこへ避難所に居る皆さんを移す。希望する皆さんを、ホテルの二次避難先に入居していただく、いわゆる「沖縄『愛』のキャンプ」を、現地近隣で創ることが、具現化した支援策だと考えます。
300室を借り上げて確保すれば、家族一室として1000名規模の避難者に、トイレ、風呂、温かい食事、ベッド、プライベート空間を提供することができます。その費用が一人1万円、諸経費を入れて5億円かかったとしても、県民全体で寄付を募り、足りない部分は県が補填しながら、「沖縄『愛』のキャンプ」で被災地に笑顔をつくるべきなのです。
2.被災した子どもたちを夏休みに沖縄に招待
大地震を体験し、避難生活を強いられた子どもたちを、夏休みに沖縄に招待してはどうでしょうか。
楽しいはずの正月に、経験したことのない恐怖を味わい、厳しい寒さの中で不便な避難生活を強いられ、余震に怯えながら頑張っている子どもたち。そんな子供たちに、今年の夏休み、青い海、青い空が広がる沖縄に来ていただき、存分に楽しんでいただく夢のプロジェクトを実行すべきだと思います。被災した子どもたちの笑顔は、地元で頑張るお父さん、お母さんの活力にもつながります。
またこのプロジェクトでは、沖縄の魅力を体験してもらうだけでなく、沖縄の子どもたちとの交流、伝統芸能など沖縄の文化学習、沖縄の特異な歴史、米軍基地問題等、沖縄についてより知ってもらうことができます。